18年目のファースト・ラブ
行き交う人々がせわしなく、どこか浮足立っている季節。地上から色彩を奪う凍えた空気を少しでも温めたくて、街をきらきら華やかなイルミネーションで飾りまくる12月現在。
佐久早聖臣(18歳)は、未だ恋愛経験が皆無であった。
だが、当の佐久早はその事実を特に気にしていない。恋愛にまつわるあれこれが、佐久早は心の底からどうでもよかった。学生時代も、同級生たちが女子の話題でテンション高く盛り上がる様子が、はなはだ不可解で仕方なかった。
小学校でバレーボールに出会ってからというもの、佐久早の情熱は余す処なくバレーボールに注がれた。努力を努力とも感じず心の赴くまま、佐久早は自分のリソース全てを、最高のバレーボールのために費やしてきた。
バレーボールとともに日々を生きられれば、佐久早は充分に満たされていたのだ。
だから今まさに、ロッカールームで繰り広げられるチームメイトたちの雑談も、さして佐久早の興味をひきはしない。例え、いそいそLINEを確認してはにやけていようが。かたや「男だらけのクリスマス会しようぜ!」「クリぼっち上等!」と自虐混じりに叫んでいようが。
(毎日毎日、よくそうも騒ぐ材料があるもんだ)
耳栓代わりにワイヤレスイヤホンを突っ込み、最後にマスクをつける。「お先に失礼します」と形だけの挨拶をして男子更衣室を出た。
「なんだ佐久早〜ノリ悪ィな!」
「ジャージからわざわざ服着替えて……まさかデートか?」
「リア充死すべし!」
扉越しの喧騒は、当然だが佐久早には届いていない。大学のクラブハウスの廊下は肌寒く、佐久早はチェスターコートの前ボタンを閉じた。
時間を確認したくてスポーツバッグのポケットからスマホを取り出すと、LINEから通知が入っていた。差出人は予想通り「古森元也」。
内容を確認したあとの歩調がこころなしか速くなったことに、佐久早自身は気付いていない。
古森は、佐久早と同い歳の従兄弟である。バレーボールは小学校低学年の時、古森に誘われる形で始めた。
以来、高校生まで文字通り寝食をともに過ごしたふたりが高校を卒業したのは、今年3月のこと。
4月から、佐久早と古森は互いの姿が見えない場所で生活をしている。ふたりでバレーボールをするようになってから、およそ10年ぶりに。
高校卒業後、古森はプロチームに入団して長野へ移り、佐久早は大学バレーの道を選択して東京に留まった。それぞれの適性や希望に添って決定した進路に、高校生のふたりは何ら迷いを覚えなかった。これまでしてきたように、思う存分バレーボールに打ち込める環境を選んだに過ぎなかったから。
信じる以前に疑いもしなかった。今まで通りバレーボールに打ち込めさえしたら、自分たちは充たされるのだと。
(今だって、別に迷いがあるわけじゃねえんだけど)
純白のあられが藍色の夜をキャンバスに風の軌跡を描く。吐く息は凍りつき、黒のチェルシーブーツのつま先が冷えて少し痛い。降りかかる氷の粒を避けたくて伏し目になると、イヤホンから脳に入り込む洋楽も手伝って思考は自然内面へ向かう。
大学の最寄り駅へ向かう道のり。増えていく人々の気配も意識から遠のき、佐久早はぼんやりと思いを巡らせる。
バレーボールを続ける環境は、大学に進学して一層整った。寮生活から自宅通学に変わったとはいえ生活自体に大きな変化はない。多忙な家族はもともと留守が多く、自分の身の回りの世話は自分でするのが佐久早家のルールだ。食などの生活習慣を自分で管理し、精神と身体を自分の計画で最も良い状態に作り上げられると思えばむしろ楽しくもある。苦にはならない。
佐久早がライバルと認めた選手である牛島若利は、佐久早より一足先にプロリーグへと進んだ。牛島以外にも、佐久早に影響を与えた実力ある選手らの何人かはプロリーグを選んでいる。彼らと早く同じコートで戦いたいという気持ちもあったが、スポーツトレーニング理論や戦略解析理論の学びが自分の今後のプレイに役立つと判断して、佐久早は大学に進学したのだ。
後悔はしていない。というよりも、後悔する要因の心当たりがない。
(最近、同じことばかり考えてる)
ルーティンに従って地下鉄に乗り、揺れに身を任せる。金曜日の帰宅ラッシュにかかって車内は混んでいる。しかし、佐久早の目の高さにあるのは吊り広告や網棚、低い天井。見るべきものなどないと、目を閉じた。
外とは打って変わって蒸し暑い。胸の高さで人間のつむじが息苦しそうにひしめき合っていても、佐久早には異世界の話だ。服越しであれ見知らぬ人間たちの湿った体温は不快だが。
生まれも育ちも東京である佐久早は、実は満員電車と縁がなかった。中学まで地元で過ごし、高校は寮生活で、電車を利用する機会自体が少なかった。
しかも、たまに電車を使う時は必ず側に古森がいた。親戚で、幼馴染で、チームメイトの彼とは常に行動をともにした。用事で出かけるにも遊びに行くにも。だからという訳ではないが、佐久早は自分が当時乗っていた電車が混んでいたのか、そうでないのか思い出せない。
思い出せるのは、楽しげに佐久早を見上げ、話しかけてくる古森の顔。佐久早が知る限り、古森はいつでも機嫌がよかった。腹の立つ出来事があっても、ミスして落ち込んでも、決して長くは引きずらない。
何があっても安定の上機嫌。やかましくない程度の明るさと面倒見の良さは場の雰囲気を落ち着かせる。そういう人間が、チームプレイを必要とする競技においてとても貴重な存在なのだと、佐久早は古森と離れて初めて意識した。
(俺は迷ってない。後悔もしてない。でも、ただ)
何かが足りない。頭の中を堂々巡りして、たどり着くのはいつもその結論。
佐久早は、今の生活を物足りないと感じている。にもかかわらず、何が足りないのか思い当たるフシがないのが、どうにも居心地が悪い。
ぶるる。コートのポケットから振動を感じた。ほとんど同時に降車駅に到着し、ホームに降りた佐久早は人の流れを抜け出して柱に近づくと、スマホを取り出す。
『駅まで迎えにきた!』
『寒いからコーヒーのんで待ってる!』
古森からメッセージが立て続けに入る。後に続く店の名前にまで感嘆符がついていて、佐久早は苦笑した。元気ありあまりすぎだろ。
休暇に入った古森は、今朝、長野の社員寮から実家に戻った。そして今夜、佐久早は古森家で一緒に夕食を食べようと誘われていた。
古森の家は佐久早の家から歩いて20分ほどの距離で、最寄り駅も同じである。自宅同然に行き来してきたのだから、寒い中わざわざ迎えに来なくても道に迷ったりはしない。
家で待っていればいいのに。風邪引いたらどうするんだ。マスクの中でぶつぶつ独りごちつつ階段を二段飛ばしで登りきり、スマホをかざして改札口を通り抜ける。と、手の中でまたスマホが震えた。
『今年の駅前ツリー、すっげキレイだな!』
ツリー? 首をひねりつつ顔を上げた佐久早は、思わず足を止めていた。
唐突に目の前に現れたのは、巨大で真っ白なクリスマスツリー。青いLEDライトのオーナメントが点滅し、そこだけまばゆいほど明るい。駅前広場の中央で待ち合わせる人々の笑顔に囲まれ、夜空に向かって誇らしげに煌めいている。
(こんなところにクリスマスツリーなんかあったか?)
降って湧いたような光景が信じがたく、佐久早は瞬きを繰り返した。
あったような気はする。けれどこんなに大きくはなかった。スタンダードな常緑のもみの木に天使やサンタクロース、赤いリボンが飾られていて……違う。それは去年のクリスマスツリーだ。
この駅前広場には、毎年クリスマスツリーが飾られる。ハロウィンが終わったら街はすぐハッピーホリデーシーズンに入り、駅前の装飾も変わる。街並みの変化に気付くのはいつでも古森が先だった。
古森が袖を引くから佐久早は立ち止まり、一緒にクリスマスツリーを眺めたのだ。
ああ、そうか。
胸の裏側で、欠けていた歯車が気持ちよくはまる音がした。物足りないと思っていた何か。見つけた瞬間に正体が分かってしまった。
小学生の頃から古森は、うつむいて歩きがちな佐久早に、あれを見ろこれを見ろとよそ見をさせた。古森は、時の流れから彼が見つけて拾い上げる思い出という宝物を、惜しみなく佐久早に分け与えた。
古森が隣にいてくれたから、佐久早はめぐりくる季節の変化を知った。毎年装いを変えるクリスマスツリーのように。ひとつとして同じものはない一瞬一瞬が、鮮やかに心を彩る記憶となるのだと教えられた。
佐久早はしばし、キラキラ輝くブルーのライトを深い闇色の瞳に写し込む。そうしてたっぷり心の底に青い光を沈めてから、手元のスマホを見直した。
『うん。すごくキレイだ』
送信したら即座に既読となり、『あ、駅ついた? おかえり!』と返信が届く。感嘆符と柴犬が跳ねて喜ぶスタンプ。
冷静に考えれば返信する必要はない。改札口から古森が待つカフェまでほんの数分の距離なのだから。
それでも佐久早は返事を送り、古森も返してくれる。
会えるまでの数分の時間も繋がっていたいから。きっと、古森が佐久早を駅まで迎えに来たのも同じ理由だ。
(クリスマスなんか、全然興味なかったけど)
おあつらえ向きにイヤホンから流れる音楽は、アップテンポなクリスマスナンバー。嫌でも気分が高まっていく。
一刻も早く確かめたい。自分が今初めて感じている気持ちを、古森も同じように感じているのかどうか。
いっときの気の迷いでも勘違いでもないと、古森の顔を見ればわかる。必ず。
君を僕のものにしたいだけ。訳したら歯が浮くような歌詞に背中を押されて、佐久早は降りしきる雪の街へ走り出す。
*****
こうして、佐久早聖臣(18歳)は、晴れて恋愛経験なしイコール年齢を卒業した。
が、恋は自覚してからが大変なのだと、佐久早はまだ知らない。
カフェに着き、席にいた古森と目が合うなり顔に血が上り、「熱があるのか?」と心配されることも。
雪の中、あいあい傘に動揺して息も絶え絶え、動悸で口もろくにきけない有様となることも。
古森の睫毛に乗った雪の粉がとても綺麗だったからつい、マスク越しにキスしてしまうことも。
驚きのあまり腰が抜けた古森を、しぶしぶを装い背負って帰ることも。
そんな予期しないハプニングが全部、甘くくすぐったい記憶になることも、これから二人で知っていくのだ。
【了】