(6006文字)
戸蘭
佐久早聖臣って男は気難しい。
超がつくマイペース野郎。自分ルールで生きてるから、周囲の人間の思惑は基本気にしない。自分の人生を生きることにかけて恐ろしいほどストイック。潔癖すぎるきらいはあるけれど、そのやり方できちんと結果を出し続けてきた。
そんなイトコのことを俺、古森元也は生きるの大変そうだなと心配しつつも敬意と愛情を持って接してきた。
生まれた時から知っていて、小学校から大学までべったり一緒にいた存在だ。従兄弟として、幼馴染として、日本トップレベルと称されるバレーボールプレイヤーとして、聖臣について知らないことなんかないと信じきっていた。
良くも悪くも気安かった。扱いがメンドくさいところも多々あったにせよ、どう答えたらいいんだろうと途方に暮れるようなことはなかった。
――今日、この日までは。
俺のイトコはメンドくさい
「これで俺の千勝目」
特に感慨もなく発せられる勝利宣言。久しぶりに挑んだ腕相撲で、俺は無情にも腕をテーブルに打ち伏せられた。
ちくしょう。勝てなくなってると自覚してはいたけれど、千敗もしてたなんて……って、おい?
「……いちいち数えてたんか? いつから?」
「中学入学する直前の、俺の誕生日から」
すらすらと聖臣は答える。中学入学といえば今から十二年前だ。そんな昔から俺とやった腕相撲の勝敗をちまちま数えてたのか? 粘着質だとは知っているけれど、まさかここまでとは。
向かい合って座るダイニングテーブルから離れ、聖臣はキッチンカウンターの向こうにある冷蔵庫へ向かう。缶ビール二本を手に戻ってきた聖臣は、俺の前に一本を置いてくれた。
懐かしい気分になる。ここ、聖臣の実家のダイニングテーブルは、大昔からしばしば俺らの腕相撲会場になってきた。勝負の後に冷蔵庫から飲み物を取り出して飲むのも恒例の流れで。
もっとも昔は、ビールじゃなくて煮出した麦茶やジュースを飲んでいたのだが。
「ちなみに俺は何勝してんの?」
「八百二十七勝」
「まじか。すげえ負け越してんじゃん俺……」
ため息をつき、俺はビールのプルトップを引く。ぷしゅ、と鳴る軽い音だけは、子どもの頃に一緒に飲んだコーラのものと似ていた。
聖臣に身長を抜かされたあたりから、腕相撲は次第に勝てなくなっていった。俺自身、百八十センチの大柄で筋力だってそれなりにあるはずだが、聖臣が輪をかけてでかくなってしまったので、これはもう仕方ない。
仕方ないと分かってる。けど――聖臣に追い越されたと自覚する瞬間、俺の喉元はいつもきゅっと苦しくなる。
何度経験しても慣れない。この悔しいとも悲しいとも寂しいともつかない、酸っぱいものを無理矢理飲み込む感覚には。
「……何? じっと見て」
「べっつに」
ふぅん、と気のない相槌と一緒に聖臣はビールに口をつけた。どこを見ているのかわかりにくい黒目がちの瞳がほんの少し斜め下に伏せられる。これは何か考えごとを始めた時の顔。長い付き合いだから、察するつもりがなくても察してしまう。
大学を卒業した俺たちは長かったニコイチの生活に終わりを告げ、聖臣は大阪、俺は長野と別々のプロバレーボールチームに所属することになった。今年で二年目になる。
十月から始まったVリーグが年末年始の冬季休みに入り、それぞれ社員寮から東京にあるそれぞれの実家に戻ったのが昨日のことだ。クリスマスが終わったばかりの年の瀬は、一般の人々にとっては最大の繁忙期である。俺は母と姉妹が騒がしい自宅から、仕事で全員出払っている聖臣の家に逃げ込んでいた。
当然みたいに泊まり込み、今朝は一緒にランニングに出かけた。近所のカフェで朝食をとってジムでトレーニングメニューをこなしたら、聖臣のうちに戻って昼メシ。炒飯と残り野菜を煮たコンソメスープは、昔からふたりで留守番する時によく一緒に作った献立だった。
その後は各々本を読んだりタブレットをいじったり。聖臣のうちには俺のマンガ本やゲームが十数年分大量に持ち込まれており、時間つぶしには事欠かない。整頓魔の聖臣は、彼の自室のクロゼットにそれら全部をキレイにしまいこみ、持ち込んだ俺本人よりもどこに何があるか把握していた。
持って帰れと言われないままこの歳まで来たのが不思議である。単に言っても聞かないと諦められているだけなのかもしれない。
今日の腕相撲は俺から誘った。夕方近くになってマンガと動画に飽きたから。別にいいけど、と聖臣は大して乗り気でもないくせに拒みもしなかった。
中学生、いやもっと以前から聖臣と俺はそんな感じ。腕相撲に限らない。いつでも先に始めるのは俺。ジグソーパズルも飼育係も、もちろんバレーボールも。俺が最初に誘った。
気乗りしなさそうに始めては、聖臣は俺より早く、遠くまで辿り着く。執念と区別がつかない努力をもって必ず目標に到達する。
ただ聖臣本人にとってそれは、努力というよりも「できるまでやる」だけのことなんだと俺は知っている。やり遂げないと気持ちが悪い。至ってシンプル。シンプルだから、融通がきかなくてメンドくさい。
「元也。……元也?」
「……あ、わり。ぼーっとしてた」
名前を呼ばれてはっと我に返った。漆黒の瞳が、今は俺を真正面にとらえている。居心地が悪くなり、つい視線をそらす。さっきから胸の内側を曇らせるもやもやを、感づかれたくなかった。
「なんなの。悩み事とか?」
「ねえよぉ、悩みなんて。聖臣こそ、考えごとしてたんじゃねえの?」
突っ込まれたくなくて矛先を変えてやる。俺の考えごとになんか普段はキョーミないのに、聞いてほしくない時ばかりに鋭い。勘弁してほしい。
「考えごと……うん、まあ少し。悩んでる」
「悩む? 聖臣が?」
「は? 俺が悩んだら変なのかよ?」
素っ頓狂な声を上げた俺に、聖臣が眉間のシワを深くする。しまった。機嫌を損ねたら、またメンドーなことになりそうだ。俺は慌てて、広げた両の掌を振って否定した。
「ちがうちがう! 悩んでんのが変じゃなくてさ。悩む途中で話すのが珍しいっつか。お前、悩んでも結局自分で結論出して、事後報告で終わりじゃん?」
「それは……確かに」
「だろ?」
「今日は状況が違う。自分ひとりの問題なら事後報告でいいけど、自分以外の要因が結果に関わってくる場合はそうもいかない」
「なるほど……?」
「でもそうだな。まずは切り出さねえと結果も出ようがない」
神妙な顔で、顎に手をやった聖臣が続ける。
自分以外の要因? 何の話だろう。こんなこと今までなかった。俺ともあろうものが、聖臣の考えにからっきし予測がつかない。
「元也」
「お、おう」
「俺と付き合って」
とっさに出かけた「どこに?」の返事はあえなく気管で消滅した。
じいっと、聖臣の大きな黒目が俺の間抜けなポカン面を映している。夜の猫みたいな瞳。猫の瞳孔が真っ黒に開くのは、暗い時と――狩りの獲物を視界にとらえたその時。
理解したくなかったが俺はしっかりと理解していた。聖臣の言葉が意図するところを。
「冗談、……」
「じゃねえ。わかってんだろ?」
ハイ、わかります。言葉の意味はな? だけど――。
*****
パチ、と世界が急に明るくなって、金縛りから解けたように身体から力が抜けた。強張っていた肺がやっとまともに酸素を取り込んでくれて、俺は大きく息を吐く。
聖臣がテーブルの上にあったリモコンで照明をつけたのだ。冬の日暮れは短い。いつの間にかダイニングルームはすっかり夜に侵食されていた。どれくらいの時間見つめ合って固まっていたんだと焦ったが、実際は数分にも満たない時間だったらしい。
「返事ほしいんだけど。あ、どこにとかベタなのはなしで」
「フツーに無理!」
「なんで?」
泡を食う俺と対照的に、無表情の聖臣には動揺の片鱗もない。見慣れたネイビーのスウェット姿で、夕飯の献立を尋ねるよりも平坦な声で、とんでもない問いかけをしてくる。
なんで? なんでって、そんなの考えるまでもない。聖臣と俺は男同士で、従兄弟で。
だから無理? 違う。大事なのはそういうことじゃなく。
「なんでって……付き合うのって好き同士がするもんだろ。聖臣は俺がす、好きなのか……?」
言葉にした途端にぶわっと頬に血が昇った。耳も、目の裏まで熱い。やばいこれ。俺、きっと真っ赤になってる。
「いや、好きとは違う」
「はぁ? 意味わかんねーんですけど!」
ますます混乱する。好きじゃないのに付き合いたいってどういう了見で物言ってんだ!
相手は俺だぞ! 男同士で、従兄弟で、幼馴染で、ライバルで。人生の大半をずっとずっと一緒に過ごしてきて。
じわ、と眼球が熱く溶ける感覚。見られたくなくて俯いた俺は、テーブルの上できつく握り込んだ己の拳を睨んだ。
――俺にとって聖臣は、誰にも、何にも代えられないのに。
「……とくべつ」
「……え?」
「好き嫌いの次元じゃ測れねえ。イラッとする時でもいなくなられるよりはいい」
「イラッとするって、失礼か!」
思わず顔を上げると、ばちっともろに視線がかち合ってしまった。試合をしている時とおんなじ、絶対に逃さないという執念を滲ませた、夜の猫に似た真っ黒い瞳。
ばく、ばくと心臓が跳ね始める。駄目だ、俺のこの反応はオカシイだろ。まるでときめいてるみたいじゃないか!
「元也と離れてから景色に隙間ができたみたいでしんどかった。元也の中の俺がいた場所に、代わりの誰かが収まるのも気分悪ィ」
「な、んだよそれ。収納の話?」
「そうだな、近いかも。あるべきところにあるべきものがないの、落ち着かねえ」
「マジ意味わかんねえ。俺と付き合ったら隙間はなくなんの?」
「離れて暮らしてる以上はなくならない。でも、元也は俺のだから必ず戻ってくるって思えたら、不安にはならない」
「誰がお前のだ。勝手なことばっか言いやがって……」
激しい動悸に悲鳴を上げるように胸が痛み出す。また、だ。この感覚。聖臣に追い越されたと感じる時の苦しさ。悔しいとも悲しいとも寂しいともつかない、ただただ痛い。
また、俺は置いてかれてる。俺の知らないところで、俺の知らない感情を胸のうちにはぐくんでいた聖臣に。
俺の目から一粒溢れ落ちた言葉にならない感情が、伸ばされた親指の先でそっとすくわれる。ふるっと背筋に滑り落ちた電流に弾かれるように、俺は聖臣の手を押しのけていた。
「俺は、聖臣のものになんかなりたくねえ!」
「だろうな。でも、もう遅い」
「何が遅いんだよ!」
「俺が始めたら諦めないヤツなの、元也が一番知ってると思うけど」
いつの間にか立ち上がっていた聖臣が、背後からぎゅっと抱きしめてくる。
塩対応の権化みたいなヤツが、まるで労るように。抱擁をほどこうとした手に力が入らなくて、回された腕に添えるしかない。そして何を誤解したのか、聖臣の抱きしめる力は一層強くなってしまった。
「俺は一人でも良かったのに。そうさせなかったのは元也だから、責任とれ」
なんという傲慢な言い草。腹立たしい。のに、怒れない。耳元でささやく聖臣の声がとても心細そうだったから。
「……元也が高校でリベロに転向するって言った時、嬉しかった。お前は本気で俺と一緒に居続けるつもりなんだって分かったから」
「……聖臣のためじゃねえぞ。自惚れんな」
「結果的には同じことじゃん」
俺は今まで一度も聖臣から一緒にいて欲しいと乞われたことはない。じゃあ俺が聖臣と一緒にいたかったのかと問われたらそれも少し違う。
ただ置いていかれたくなかっただけ。俺を追い越して聖臣が辿り着こうとする世界を俺も見たかっただけだ。
スパイカーからリベロに転向したのは、スパイカーのままでいたら俺は頂きの世界には行けないと気付いてしまったから。佐久早聖臣という稀有の才能に否応にも気付かされた。
俺が頂の景色を見るためには、コートで跳ぶための翼を捧げる必要があるんだと。
「なあ元也、返事。言えよ、俺と付き合うって」
「あのなぁ……不安になりたくないから付き合うとか、理屈めちゃくちゃだからな? 俺は付き合う人とは恋愛したい。お前にできんの?」
「できる。そうしたいから言ってる」
ちゅ、と薄い唇が耳裏に吸い付き、びく、と全身の神経が震える。びっくりした俺が飛び上がるより先に、聖臣の気配がすっと離れた。呆然とする俺を聖臣は見下ろしてくる。俺以外の人が見たら、いつもと同じ無表情としか思えない顔で。
「キスもセックスもするぜ。安全かつ衛生的に、気持ちよく抱いてやる」
ふんと得意げに笑われ、俺は哀れに口をぱくつかせるしかなかった。自分の顔色が赤くなっているのか青くなっているのかも判別がつかない。ひたすら鼓動が体の内側をやかましく反響して、息が止まりそう。
わかるのは、聖臣は『始めてしまった』こと。そして聖臣が『始めてしまった』ら、俺の選択肢はふたつにひとつ。
あきらめるか、追いかけるか――。
「……ちょい待ち。俺がお前に抱かれんのか? そこ決定事項?!」
「決定事項。雑なお前には任せられねえ」
「俺の意見はまるっと無視かよ! 大体まだ付き合うって答えたわけじゃ……」
「腹減った。晩メシなんにする?」
言い募る俺をひらりとかわして、聖臣がキッチンに歩いていく。鍋でもするか、と冷蔵庫を物色する聖臣は普段通りで、憎たらしいったらない。
「……元也は時々メンドくさいよね」
「メンドくさい? そりゃお前だろ!」
「俺もメンドくさいかもだけど、元也も大概だ。ま、メンドくさいヤツだから、俺と一緒にいようなんて思ったんだろうけど」
俺は運が良かった。ぼそりとつぶやかれ、俺は再び言葉を失う。そんなことを言われても戸惑ってしまう。いつも自分が必死で追いかけるばかりで、歯牙にもかけられていないと思っていたのに。
聖臣の言う通り、俺は聖臣に負けず劣らずメンドくさい人間なんだろう。聖臣に対して抱え込んできた十数年分のこんがらがった感情は、とても今の俺の手に負える代物じゃない。
「……俺、すき焼き食いたい。肉」
「……親父がお歳暮でもらってた黒毛和牛がある。食っていいって言ってた」
しゃがんで冷蔵庫の野菜室を物色する聖臣の背に抱きついてねだる。子どもの頃と同じ他愛ない戯れの仕草。かつてと違うのは、聖臣の耳が火照って赤くなり、俺の鼓動が再び早鐘を打ち始めていること。
従兄弟で、幼馴染で、ライバル。佐久早聖臣のことを好きかと訊かれたら好きだと答えるだろう。でも、同時に憎たらしくて、一緒にいるのが時につらくもなる。
それでもずっと同じ景色を隣で見ていたいと願う、たった一人のとくべつ。
ただでさえメンドくさいのに、さらに恋愛だのセックスだのメンドくさい関係を付け足そうなんて正気の沙汰じゃない。わかっている。けれど。
こいつを追いかけずにいられないのも、今までの経験から嫌というほどわかってしまっているから。
一人にはしない。誰のためでもなく、俺自身のために。メンドくさい俺のイトコがたどり着きたい世界を一番近くで見るのは、俺だけの特権だ。