抱卵(16404文字)
サカナツキ
「 、 」
突然、聖臣がそう切り出した。
脈絡はないと思う。今日は一度もその話題には触れていないし、そもそも今は夕食の席で、聖臣は食事中におしゃべりをするのが嫌いだ。だから俺も黙って食べることに集中していたのだ。
夕飯のオムライス。卵と真っ赤なチキンライス。スプーンで掬った手が止まる。
急に静まり返った食卓にはキッチンでお母さんが食器を洗う水音だけが聞こえる。今日はバレーボール教室で聖臣の居残り練習に付き合って遅くなったから、姉妹はとっくに夕飯を済ませてお風呂に入っていた。お父さんは遅くなるらしい。聖臣の家族はもっと遅くなるそうだ。だから、聖臣はうちで夕飯を食べてお風呂に入って、たぶん俺の部屋に布団を敷いて寝るんだろう。
俺は聖臣の言葉になんて返事をしたらいいのか分からず、ぽかんと口を開けて聖臣を見つめていた。向かい側で同じようにオムライスを食べる聖臣は、しかしもうそのことに興味もないようで、俺のほうを見向きもせずにひとりだけ食事を再開する。もしかしたら俺の空耳だったんじゃないか、聖臣は、本当はやっぱり一言も言葉なんか発してないんじゃないかと思うくらい、素っ気なく。
なんだか不思議な気分になった。
結局事の真偽は分からない。食事中にしゃべらないはずの聖臣が珍しくしゃべりかけてきたのかどうかも、発した言葉がなにを意味していたのかも。聖臣に聞くのは少しだけ怖いような気がして聞けずじまい、それでも聖臣はなにも言わない。夕飯の続きを食べ終わり、姉ちゃんたちと交代して一緒にお風呂に入り、二人で湯船に肩まで浸かった時も、沈黙を貫く聖臣の傍らで俺はぐるぐるとそのことばかりを考えていて。
考えて、考えて、考え抜いて。
お風呂から出たあと、食べたオムライスを全部吐いた。
・・・
体育館にシューズの底が滑る音が響く。
キュッとかん高いブレーキを踏むみたいな音と掛け声。踏み切って、跳んで、ボールが床を打つ破裂音。歓声が上がる。それに合わせて惰性のように拍手をしながら、耳元では全く関係のない会話が飛び交う。
「だからさぁ、牛乳じゃんけんは絶対不公平だと思うんだよなぁ」
「まだ言ってんのかよ。じゃんけんで不正なんかできないだろ」
「でもアイツちょっとズルだよな。エビフライの日は残すくせに、おかわりじゃんけんに参加していいの?」
「仕方ないよ。先生がアイツは『アレルギーだから食べなくていいんだ』って言ってたもん」
「アレルギーっていいよな。嫌いなもの食べないでいいんだから」
左隣に並んだ三人は同じ学校の同じクラス同士で仲がいい。この時間はいつもクラスメイトの嫌な奴の話で盛り上がっている。学校じゃ大っぴらに言えないことを言うのにうってつけなのだろう。バレーボール教室で他に彼らと同じ学校の児童は六年生の二人だけで、今は二人ともコートの中にいる。練習試合を来週の日曜日に控えた今週は、終わりの二十分間にレギュラーメンバーを中心としたミニゲームをやることになっているのだ。六年生は全員がレギュラーだから交代で試合に入り、そこに監督が選んだ五年生がちらほら混じる。俺たちと同い年の四年生から下はほぼ外野。しかし、ひとりだけ仲間入りしている奴がいた。
聖臣だ。
「俺もアレルギーだよ。嫌いアレルギー」
「嫌いはアレルギーじゃないだろ」
六年生のリベロがサーブを上手く上げた。同じく六年生の正セッターがすかさず回り込んできれいなトスを上げる。しなやかな両腕、中学生みたいに高い背丈。このチームではあの人が一番上手い。セットもサーブも、レシーブも。どのポジションでも活躍できるから、一番代わりのいない役割を任されている。そのすごい先輩が選んだスパイカーは、呼吸を合わせて高々と宙に跳び上がる。
描かれる放物線。ああ、なんて柔らかくてきれいなスパイクだろう。
聖臣のスパイクが決まった。叩き込んだボールはレシーブの手を弾いてアウトコースへ逃げてゆく。歓声が上がる。拍手が響く。「ナイスキー佐久早!」六年生のセッターが聖臣の背中を叩いた。
「そういえば古森って卵アレルギーなんだろ」
目の前に広がる眩しいほどの熱気につい見入っていると、いきなり左側から名前が挙がって俺は我に返った。振り返れば、試合も見ずにおしゃべりしている仲良し三人組が俺を見ていた。
「ごめん、聞いてなかった。なんの話?」
一応謝っておく。悪いとは思っていないけど。すると、真ん中の一番声がデカい奴がにやりと意地悪く笑う。
「古森は卵アレルギーだから卵食べられないんだよな」
せせら笑うような言い方に俺は思わず顔を顰めた。
「アレルギーじゃねえよ」
「でもこの前書道教室で、お前と同じ学校の奴が言ってたよ。古森は絶対に卵食べないんだって。先生に怒られても食べないって」
「うるせえな。関係ねえだろ」
「まあやめようよ。アレルギーなんだから古森かわいそうじゃん」
「アレルギーじゃねえっての」
身を乗り出した途端に、また周囲がわっとどよめいた。拍手が起こる。慌ててコートに視線を戻すと、セッターの先輩が再び嬉しそうに聖臣の肩に腕を回していた。また決めたのだ。ちくしょう、見逃した。バカ野郎の相手なんかしてるから。
「いいぞ佐久早! お前どんどんよくなってるな!」
監督も大きく手を叩きながら聖臣に声援を送る。隣のセッターはやたらに得意げな顔で聖臣を抱き寄せて見せびらかしていた。まるで弟を自慢する兄貴みたい。聖臣は気まずい面持ちで固くなっている。嫌だと言って跳ね除けたいのを堪えている顔。汗ばんだ手が汚いとか、体を寄せられると気持ち悪いとか、そんなことを思っているんだろう。
言いたいことは分かる。あの人は聖臣の兄貴でもなんでもない。だけど、それを正しく理解してくれる人はそれほど多くないことも、俺は知っている。
「……また佐久早かよ」
ぼそっと低い声が賑やかな音の隙間に落っこちた。
「あいつ、先輩のお気に入りだから毎回いいスパイク打たせてもらってるよな」
「でも実際上手いよ。俺たちより後から来たのに」
「才能あるんだろ。背ぇ高いし、もともとバレー向きなんだよ」
「羨ましいな、才能ある奴って。簡単に上手くなれんだもん」
「監督だって甘いんだよ。いつも時間終わったあとも勝手に居残りしてんのに許されてんの。俺らには『早く帰れ』って怒るのに」
「ヒーキヒーキ。結局監督だって才能ある奴が好きなんだろ」
ほの暗い囁きはコートの内側には届かない。でも、外側の人にはきっと聞こえている。特に、手前にいるコートに入れなかった五年生たちには。誰も咎めないのは、きっと彼らだってなにかしら心当たりがあるからだろう。
負けたくない気持ちはよく分かる。後から来た奴に追い抜かれて悔しい気持ち、自分より上手くできる奴が羨ましい気持ち、憧れの先輩に気に入られて弟みたいに思ってもらえるのが妬ましい気持ち。そういうのが全部溶けて混ざってどろどろになって、胸の内側に溜めきれなくなった時に、嫌な感情は言葉になって外に出て来る。汚いものは外に出してしまわないといけない。人というのはそういう生きものだ。
なので、俺も聞こえないふりで聞き流した。これは仕組みだ。生きて呼吸をしていると嫌でも理解させられる世界の仕組み。ただ、聖臣はそういうものを一切知らない。汚いものをなにより嫌う聖臣には汚い感情さえ届かないらしい。妬まれていることにも疎まれているにもひどく鈍感な聖臣は、光のように真っ白なまま、バレーボールのコートに立っている。
「佐久早ラスト!」
床が軋んだ。力強い踏み込みが地面を揺らした。鳥の羽みたいに軽やかな体が宙に高く舞い上がり、蹴爪のように鋭い一撃を穿つ。その瞬間、コートはいっそう輝いて見える。真剣な眼差しはただ真っ直ぐにボールの行く先を捉えて、外側に渦巻くごちゃごちゃしたものなんか視野にない。あの横顔はバレーボールしか見つめていない。きれいな聖臣が放ったスパイクは誰の手を介することもなく真っ直ぐ床に突き刺さった。
「ナイスキー佐久早!」
「よしそこまで! 交代だ! よくやったぞ佐久早!」
眩しいほどの活躍を見せて、聖臣は言われるままにコートに背を向けた。今日もやるべきことを当たり前にこなした、そんな平然とした顔をしている。通り過ぎざまに先輩たちが笑いながら肩や背中を叩く。
「次の試合、あいつスタメンだな」
誰かがぼやいた。俺もそうだと思った。年齢や経験など関係なく、聖臣にはそれだけの実力がある。淀んだ感情なんか一切背負わない聖臣は誰より高く、きれいに飛べる。
時々、俺は考える。
あの真っ黒な両目にはバレーボール以外になにが映っているのだろう。聖臣にはどんなふうに世界が見えているのだろう。汚れを知らない聖臣は楽しむことも知らない。今もそうだ。先輩たちに褒められたって、四年生の中で一番バレーボールが上手くたって、聖臣は嬉しいとすら思っていないのだ。感情がないわけじゃない。出来事と感情が結びつかない。聖臣の見ている世界はあまりにも無菌で、聖臣の心に触れる前にするりと洗い流されてしまう。
もしかしたら、聖臣の世界にはなにもないのかも知れない。真夜中みたいな色をした、あの大きな目そのものみたいに。
そんなことを考えるたびに俺は少しだけどきりと胸が鳴るのだけれど、実際はそうでもなくて。
「元也」
戦場から凱旋してきた英雄が最初に発した音は、俺の輪郭を持って放たれた。
コートから真っ直ぐに俺もとへ帰ってきた聖臣は、当たり前のようにじっと俺の顔を見つめる。俺が声を掛けると信じて疑わない眼差しには、今は俺の姿が映っていた。
「おつかれ。すげえじゃん」
「うん」
期待に応えて労いの言葉を掛けて、それからぽんと肩を叩く。聖臣は嫌な顔ひとつせずに小さく頷くと、俺の隣に静かに並んだ。狭いところに無理矢理入って来たから肩と肩がきゅっと寄り合う。反対側の誰かと接触しないよう、聖臣はわざと俺にくっつく。試合を終えた聖臣の熱い体温。どきどきと高鳴る鼓動が直接伝わってきて、お腹の下のほうがほんの少し疼くような痛みを感じた。真っ直ぐにコートを見つめる聖臣はまたバレーボール以外なにも見えていない目をして、周りの外野たちが「おつかれ」「すごいな」なんて白々しい声を掛けてもまるで聞こえていないようだった。
やはり聖臣の世界にはなにもないのかも知れない。
どこまでも真っ新な無菌の世界。
でも、どうやらそこに俺だけは存在しているらしい。
・・・
(とは言え偶然でしかないんだ。なにもかも。
結局、俺は卵が食べられないままだ。)
・・・
放課後を告げるチャイムが鳴る。
学校内はざわざわと浮足立つ。教室から児童が飛び出して、廊下には忙しなく行き交う足音が響いた。「廊下を走るんじゃない」お決まりの怒声がどこかで上がる。俺はその目を盗んで小走りで廊下を通り抜け、昇降口で靴を履き替えると真っ直ぐ裏門のほうへ向かった。
行きがけに覗いた隣のクラスはもう帰りの会を終えていたから、聖臣は先に行っているだろう。
「お待たせ、聖臣」
着いた先でやはり先に待っていた聖臣に声を掛けた。掃除当番さながらの三角巾をつけて、手には竹箒を持っている。俺もすぐにそれに倣う。周囲には同じような格好の児童がちらほらと集まっている。
今日は週に二回の飼育当番の日だ。四年生以上の各クラスから一人ずつ選ばれた飼育係が日替わりで分担して、飼育小屋の掃除と動物への餌やりを行うのだ。月曜日と水曜日は一組と二組、火曜日と木曜日は三組と四組。金土日は用務員のおじさんと先生がやってくれる。今日は木曜日だから、三組の聖臣と四組の俺が四年生の当番である。ウサギ小屋担当は六年生、ニワトリ小屋は五年生、四年生の俺たちの担当は、文鳥のトラ。
「くれぐれも逃がさないよう気を付けてね」
先生の注意を聞きながら、集合した飼育係は早速それぞれの持ち場に分散した。俺と聖臣も連れ立ってトラの小屋の中へと入った。
「トラ、来たよー」
俺はトラに声を掛けた。驚かさないよう、なるべく声量は絞る。トラはいつものとおり、止まり木の端っこにある巣箱の中でじっと休んでいた。俺たちより長くこの学校にいるトラは子供が出入りするのに慣れっこだ。いちいち飛び回ったり鳴いたりしない。
でも最近は特に慎重だから、巣箱からちっとも動かない。
「トラ、今日も掃除するからちょっと待ってろよ。水とごはんも取り替えてやるからな」
話し掛ける俺の後ろで聖臣が静かに戸を閉める。ニワトリ小屋のちょうど真ん中に金網を立てて隔てた小屋は、俺と聖臣が二人で入っても少し余裕があるくらい広い。トラがひとりきりで暮らすには少し広すぎる。そのせいか、小屋の中はいつもそれほど汚れていないので、足元を少しだけ箒で掃いて、必要ならちょっとだけ藁を足してやれば大抵きれいになる。今日も同じだ。聖臣が早速掃き掃除を始めたから、俺は止まり木に引っ掛けた餌箱と水入れを外しにかかった。
「なあ。トラのごはん、もうちょっと巣箱の近くに置いてやったほうがいいかな?」
俺は聖臣に問い掛けた。餌箱の中身を覗く。あまり食べた形跡がない。水もそれほど減っていないし、きれいなものだ。トラがろくに食事を摂っていないのは明白だった。巣箱の中に目をやると、トラは羽を畳んで大人しく目を閉じている。もしかすると昨日からずっと動いていないのだろうか。
「近くに置いてやったら食べるかも」
「お腹が空いたら出てきて食べる。先生も言ってただろ」
「でもトラ、今は巣箱から動けないんだぞ?」
「その気になれば動く。病気じゃないんだし」
「そうだけどさぁ。トラ一生懸命がんばってんだし……」
「がんばるとかないだろ。元也、なんでそんなムキになるの」
聖臣の返事は素っ気なかった。黙々と下を向いて箒を動かしながら面倒くさそうに受け答えする。トラの様子はさほど気にならないらしい。俺はなんだか釈然としなかった。飼育係なんだから、もう少し心配してやってもいいだろうに。
問答しても埒が明かない。俺は口を閉じて、餌箱と水入れを持って小屋の外に出た。ちらりと聖臣を振り返る。律儀を絵に描いたような背中が丁寧に掃き掃除を続けている。聖臣だから手を抜くことはない。それは分かっていても、もう少しトラに対する情があってもいいのになんて思ってしまう。
トラは今、巣箱の中で卵を温めている真っ最中なのだ。
卵が見つかったのは二週間前。最初に見つけたのは俺だ。いつものようにトラの小屋を掃除しようとして中に入ったらトラが巣箱でうずくまっていて、その羽の隙間に小さな白い卵があったのだ。たぶん、トラが卵を産んだのは初めてだと思う。俺が知っている限りは。そもそもメスだってことも知らなかった。慌てふためく俺とは反対に先生は落ち着いていて、「トラの気が済むまで抱っこさせてあげようね」と笑って言っていたので、それ以来ずっと俺たちはトラと卵を見守っている。
小さなトラは、もっと小さい卵を毎日大事そうに羽の下に抱えて、一生懸命守っている。上手くは言えないけれど、俺はその姿になんとも言えない気持ち――無理やり言葉にまとめるなら同情とか使命感みたいなものを感じるから、なんとなくトラには優しくしてやりたいし、できる限りのことをしたいと思う。たぶん変なことじゃない。先生も良いことだと言ってくれた。
けれど、聖臣にはそういう気持ちはないようだ。いつもと同じ、トラが卵を産んだことも、聖臣の世界に波風を立てるような出来事じゃないんだろう。聖臣は飼育係だからといって特別トラを可愛がるわけではなく、ただ自分の役割として淡々と世話をこなしているだけに過ぎない。始めたことは最後までやり通す、聖臣の主義の問題だ。そもそも飼育係を選んだのだって自分がやりたいと思ったからじゃなくて、聖臣のクラスが係を決める前日に、先に係が決まった俺が「飼育係になった」と話したせいだ。
聖臣は俺のいるほうを選んだだけ。
それでも、聖臣と俺とじゃだいぶ違う。
「先生、ウサギの子供が一匹いません」
「よく探して。生まれたばかりの子供はとっても小さいから、お母さんのお腹に隠れているかも知れないわよ」
古い餌をゴミ袋に捨て、手洗い場で餌箱と水入れを洗う。冷たくて透明な水がさらさらと流れて手指の上を滑る。なんの感慨もなく、ただ流れて落ちていく。
水はどこか聖臣に似ている。無色透明。きれいなままで、さらさらさらさら通り過ぎては流れていく。形も色も残さずに。聖臣にとってはきっとこの世界にある色んなものがそうやって過ぎ去っていくものなのだ。どんなものも、聖臣の中に形や色を残さない。聖臣の心そのものがなにも留めておこうとしない。決して掴むことのできない水みたいに。
だから聖臣は大概にして、物事の始まりに俺を選ぶ。俺のあとに続いて、俺の真似をしてなにかをやり出す。ひなが親鳥の後をついて歩くみたいに。
もしも聖臣の世界にはまだ俺しか存在していないとしたら、聖臣は俺を通して色んな物事の形や色を学んでいるのだろう。バレーボールもそう。飼育係もそう。聖臣の閉じた世界が外に続く道筋はいつも俺の足跡の上にある。
でも、仮にそうなんだとしても。きっと俺はきっかけでしかない。だって聖臣は俺の後ろを着いて歩くけれど、いつの間にか追い抜いて遠くへ行ってしまうのだ。自分の行きたい方向をあっさり見つけて、自分の歩きやすい道を作り始める。俺は聖臣にとって最初の一歩で、道標かも知れないけれど、それ以上にはなれない。ゴールは違うところにある。俺には見えない、どこか違うところに。
水を止めた。流れ落ちた水はするりと排水溝に吸い込まれて、俺の手にはなんの形も色も残らない。湿り気を帯びた手の中は空っぽだ。
虚しいだけと思うのだろうか。トラも、俺も。
俺たちが抱え込んだものは空っぽだ。がんばったって掴めやしない。
それでも知りたい。トラが大切に抱き締めているものの正体がなんなのか。
聖臣の目に映る俺は何者なのか。
・・・
(飼育係は選んだわけじゃない。偶然くじで引き当てたから選ばれただけ。
きっとそれだけのことだと分かっているのに……)
・・・
昼過ぎからどんよりと空を覆い始めた雲は放課後にはぽつぽつと雨を降らせ、日が落ちる頃にはひどい土砂降りに変わっていた。バレーボールの練習で一際騒々しい体育館でもしっかりと聞こえるほど雨音は激しく、練習の合間、教室のみんなは代わる代わる不安げな顔で二階の窓のほうを仰いでいた。
今朝の天気予報がなんて言っていたのかは知らない。そんなものより、持つべきものは用心深い従兄弟である。朝、家まで迎えに来た聖臣に「傘、持ったほうがいい」と言われなければ、きっと俺も顔を曇らせて外を気にしていただろう。でも、今日は傘を持って来ている。だから俺はずいぶんと気楽で、なんならいつもよりスパイクもレシーブも調子がいいくらいだった。
そうは言ってもやっぱりレギュラー勢とのミニゲームには選ばれなかったのだけど。今回も六年生と五年生がほとんどを占めて、四年生は聖臣だけがコートに入った。監督ではなく、正セッターの六年生が指名した。あの人は本当に聖臣を気に入っている。前回の練習試合、結局聖臣も試合には出られなかったが、噂によればあの人だけが途中で監督に「佐久早を使いましょう」と詰め寄ったらしい。
間違ってはいないと思う。聖臣を出せばいいのに、とは俺も内心ちょっとだけ思っていた。ブロックが堅い相手なら生半可な力推しより、するりと逃げる聖臣のスパイクが向いている。それでも監督が頑なに五年生にこだわったのは、保護者が見に来ているからだとかなんだとか。大人の事情は知らない。でも、結局あの先輩以外は誰も監督の采配に文句を言わなくて、聖臣のことなんて意に介さずで。俺も「聖臣が出ればいいのに」とは口に出して言わなかった。
みんなで負けを認めた負け試合。あの日の印象はそんな感じ。
「うわぁー! 雨すっげぇ!」
「おい! 誰か傘入れて!」
「しょうがねえなぁ」
練習が終わって、着替えを終えた児童から次々と帰宅していく。
この雨のせいで出入口はてんやわんやの大賑わいだった。傘を持たない子は持っている子の恩恵に与ろうと群がり、そこかしこで押し問答が繰り広げられる。運のいい奴は親が車で迎えに来る子に便乗したり、別のところでは電話で親に迎えを頼んでいたり。帰宅ラッシュを目の当たりにした俺は、聖臣に断って着替える前にトイレに行っておくことにした。聖臣と俺は一緒に帰る。途中までは他の四年生も一緒だ。全員親の迎えは期待できないので、この雨でも徒歩で帰らなければならない。大した距離じゃないけれど、濡れると無性に用を足したくなる時があるから、ひどい目に遭う前に先に済ませておくのだ。どこへでもついて来る聖臣は珍しく「俺はいい」と言ってさっさと更衣室に向かったので、俺も深追いはせずにひとりでトイレに行った。
そうして帰って来てみれば、それほど時間がかかったわけでもないのに混雑はすっかり解消されていて、同じ四年生の三人組だけが出入口のあたりでたむろしていた。
「遅えよ古森。うんこなげえな」
「うんこじゃねえし」
「早く着替えちゃえよ。もうお前だけだよ、着替え終わってないの」
「やば、マジ?」
俺は慌てて更衣室に飛び込む。あいつらの言うとおり、本当に誰もいない。あれだけごみごみとしていたのが嘘みたいに静まり返っている。人の声がないと雨の音はいっそう強烈で、この中を歩いて帰るのかと思うと憂鬱になった。
「なあ、聖臣は?」
汗ばんだ服を脱ぎながら廊下に向かって問い掛ける。脱いだ練習着は丸めてカバンの中に突っ込んだ。「ちゃんとたためよ」と不機嫌な声を出すはずの相方の姿は見えない。さてはアイツ、入れ違いにトイレにでも行ったのだろうか。
「佐久早ならさっき先輩に呼ばれてどっか行ったよ」
「は? 先輩?」
返ってきた答えに驚いて俺は廊下に顔を出す。退屈そうに下駄箱の前にしゃがみ込んだ三人組は、うちひとりの携帯電話を三人で覗き込みながら「そうそう」と頷いた。さして興味もないようだ。名前は言われなかったけれど、先輩が誰なのかはすぐに分かる。きっとあの人だ。
「先輩、なんの用だろ」
俺はほとんど廊下に出たまま、半裸の体に替えのTシャツをかぶった。この際どうでもいい。それよりも、聖臣が俺のいない間にひとりで出て行ったことが気に掛かる。いくら先輩に呼ばれたからと言って、一緒に帰る約束の俺には一言もなしか。トイレに寄って声を掛けるくらいできなかったのか。本音を言えば引っ掛かっているのはそこなのだが、
「たぶん監督んとこ行ったんじゃないの? 知らねえけど」
顔を上げない同級生は素直に質問に答えた。
「きっと先輩が『次の試合に出させてやってくれ』とか頼みに行ったんじゃね。監督、先輩には甘いから聞いてくれっかも知れないし」
「先輩だけじゃないだろ。佐久早にも甘いよ」
「いいよなぁ。監督にも先輩たちにも気に入られてて」
「レギュラーとのミニゲーム、あいつだけいつも出られるもんな。今日は古森だって結構決めてたのに、結局佐久早ひとりだった」
「しょうがないよ。あいつ上手いんだもん。才能じゃ敵わないって」
ぽつぽつ吐き出される不穏な会話から俺は目を背ける。古い天井から落っこちて来る雨漏りみたいに、不満はほんの少しの隙間からでもこぼれ出る。誰かが悪いならもっと大きな声で言えるのに、誰も悪くないからこそ誰かを悪役にしなきゃならない。選ばれるのはなるべく自分から遠くて近い奴。声を潜めてれば聞こえない、でもなにかの拍子で聞こえてしまうかも知れない場所にいる奴。
俺からしたらずるいのは監督とか先輩のほうだけれど。
着替えを終えて、俺はぐちゃぐちゃ過ぎてチャックの閉まらないカバンをそのままに担ぎ上げると廊下に出た。
「俺、聖臣迎えに行ってくるわ。悪いけど先帰ってて」
「ええ? 待たせておいてそれかよ」
のっそりと腰を上げた三人組がうんざりしたように俺を睨んだ。ここは笑うしかない。苦笑してぺこっと軽く頭を下げる。
「ホントごめん。でもアイツ置いて行けないから。また今度な」
そう言って俺が背を向けようとすると、
「てか、佐久早もう帰ったと思う」
不意にひとりが口にした。俺は足を止め、彼らを振り返る。
「え、マジで?」
問い返すと、言い出しっぺはこくりと頷いた。
「うん。忘れてたんだけど、そういえば先輩が一緒に帰ろうって話してた。監督が車で送ってくれるんだって」
「いや、でも俺聞いてないし……」
「俺は聞いたよ」
「……俺も聞いた。そういえばそんな話」
「先輩、よく遅くまで残った時は監督に送ってもらってるらしいよ。きっと佐久早も送ってもらうんじゃね? お気に入りなんだし」
「そう……かなぁ……?」
俺はそれ以上が言えず口ごもった。聖臣が俺を置いて帰るだなんて信じられない。むしろあり得ない。そう思いたい。だって聖臣はいつも俺のあとをついて来て俺の真似をしてなにかを決めるくらい俺から離れられないのだ。それにバカがつくほど律儀な奴だ。一緒に帰ると決めているのを簡単に曲げるとは思えない。
でも、信じ切れない自分がいる。聖臣はトイレにもついて来なかったし、俺に黙っていなくなっているのは事実だ。最初こそ俺を必要とするけれど、聖臣は案外ひとりでなんでもできる。六年生に混ざってひとりだけ四年生でも試合ができるし、先輩のトスできれいなスパイクを打てる。五年生に劣らないプレーができる。
俺よりもずっとバレーボールの上手な先輩に誘われたら、そっちでやったほうがいいに決まっている。
本当に先に帰ったのかも知れない。
「なあ、古森。もういいだろ。俺らも帰ろうぜ」
気だるげな声が俺を急かした。待っていてくれた彼らもいい加減に我慢の限界らしい。当然か。こんな雨の夜にいつまでも残っていたくはない、お互いに。
俺は一度だけ廊下の反対側を振り返った。もうすっかり電気が消えて、先の見えない真っ暗がずっと続いていた。
「……うん、じゃあ。帰ろっか……」
聖臣の目に見つめられているみたいな真っ暗。後ろ髪を引かれる思いがする。しかし俺はそれに背を向けて、とぼとぼと歩き出した。
・・・
(『トラの気が済むまで抱っこさせてあげようね』
先生はそう言った。俺もそれがいいと思った。でも少しだけ感じた。
それじゃトラがかわいそうだ。)
・・・
聖臣が帰っていないと知らされたのは、俺が家について一時間近く経ったあとのことだった。
俺はお風呂に入っていた。帰り道、傘は持って行ったけど雨脚がだいぶ強くて濡れてしまったから、お母さんに言われて直行したのだ。湯船に肩まで浸かると冷えた体が温まって気持ちがいい。いつもより長めにお湯に浸かってすっかり気分がよくなって、いい具合にお腹もすいて意気揚々とキッチンに入ったところで、血相を変えたお母さんがいきなり掴み掛かってきた。
「きよくんまだ帰ってないって! あんた一緒じゃなかったの?」
肝が冷える。
それってまさにこのことなんだと、後になって俺はしみじみ思う。空っぽの胃袋から鉛を吐き出しそうなほど体の内側が竦み上がる感覚。鳥肌が立って、温まった体が一瞬で冷えた。全身全霊でぞっとした。
こんなに怖いことは今まで知らないってくらい、怖かった。
聖臣は、俺のことをずっと待っていた。
先輩との話が終わり、一緒に帰ろうと誘われたのを断ってひとりで更衣室に戻った聖臣は、それから俺のことを探し回ったそうだ。トイレや体育館、行きそうなところを一通り見て回り、それでも俺が見つからないので、戻って来るまで待つことにしたらしい。見回りの先生が見つけたのはバレーボール教室が終わってから一時間以上経ったあとで、その時の聖臣は体育館の出入口の小さな軒下にしゃがみこんでいたという。傘が役に立たないような、酷い雨の夜に。
『おれが先に帰っちゃったら元也がこまる』
そう言ってじっと動かずに待ち続けていた聖臣。先生にもう誰も残っていないことを説明されてようやく腰を上げ、先生の車で自宅まで送り届けられた。無事に帰ってきたと電話で伝えられた時は心底安堵したけれど、もう遅いからと話もさせてもらえなくて、俺はその晩うまく寝つけず眠っては起きてを繰り返していた。聖臣のことで頭がいっぱいだった。お腹の下のほうが痛いような、熱いような。そこに後悔と自責がぐるぐる渦巻いて、内側から蹴りつけているような気がした。そんな夢を見たような気もした。
翌朝、聖臣は高熱を出して学校を休んだ。
「いい? 学校が終わったら連絡帳とプリントをきよくんちに届けて、ちゃんと『ごめんなさい』してきなさいね」
お母さんにきつく言い含められて、俺はその日の学校帰りに聖臣の家に立ち寄った。プリントを届けるという口実があるのは助かった。聖臣は体調を崩した時は「近寄るな」と言ってお見舞いもさせてくれないけれど、これなら家に行ってもいい。正直置いて帰ったことへの気まずさはあったが、それ以上に会いたい気持ちのほうが強かった。
とにかく一秒でも早く聖臣に会いたい。
家に行くと、聖臣のお母さんが玄関で出迎えてくれた。今日は仕事を休んだそうだ。
「わざわざありがとうね」
「ううん。昨日はごめんなさい」
「いいのよ。無事だったんだし、もとくんのせいじゃないわ」
聖臣のお母さんは優しく笑って言う。顔は聖臣に似ているけれど、いつもにこにこしているところは全然違う。この女の人から聖臣が産まれてきたのだという実感は今ひとつぴんと来ない。
「あの、聖臣に会ってもいい?」
「せっかくだけど、風邪を移しちゃ大変だから……」
「大丈夫、移らないから。俺バカだから風邪ひかないってお母さん言ってたし、姉ちゃんがインフルエンザん時も移らなかった。ね、お願い」
「うーん……」
聖臣のお母さんは結局のところ優しい。俺は許可をもらって、二階の聖臣の部屋へ上がった。
ドアを少し開けてしまってから、ノックをすればよかったと気が付いて手を止める。だけどもう今更、それに寝ているところを起こしてしまったら悪いから、物音は無暗に立てないほうがいい。そう自分に言い訳をして、俺はゆっくりとドアを押し開く。
「聖臣、きたよー」
「それ以上近づくな」
不愛想な声が返事をする。パジャマ姿の聖臣が、ベッドからやや体を起こした格好でじっと俺を睨んでいた。後ろ手にドアを閉めた俺はしばし立ち尽くす。聖臣の目が険しい。もしかして昨日のことを怒っているのだろうか。そうだとしても仕方がない。俺は恨まれて当然のことをした。「出て行け」とか「顔も見たくない」とかなじられてもおかしくない。そんな不安に駆られていると、
「風邪、移るから」
ぽつりと続けられた言葉は全く普段どおりの聖臣だった。怒っている様子はない。顔色は悪くてつらそうではあるけれど。俺はひとまず息をつく。途端、僅かな安堵とどうしようもない後悔が込み上げて来て、目頭がじわりと熱くなる。よかったとよくなかった、両方の感情が左右の目に溢れ出す。
俺はたまらず嗚咽をもらして、聖臣のベッドに崩れるように駆け寄った。
「きよおみぃ……!」
「うわっ、なんだよ。近寄るな。なに泣いてる?」
「ごめっ……ごめん聖臣! おれ、置いて行ってごめん! 雨ん中待たせてごめん! 風邪引かせてごめん! 本当にごめんっ!」
「…………」
口に出すと堰を切って止まらなくなる。感情が、涙と一緒にたくさんこぼれ落ちて来る。
どうして俺は聖臣を待たなかったんだろう。
聖臣から聞いたわけでもないのに、どうでもいい言葉を信じて、勝手に聖臣のことを決めつけて、突き放して。聖臣の悪口を言う奴らなんか信じるべきじゃなかった。聖臣のことだけを信じていればよかったのに。
本当は分かっている。俺は、本当はどこかでほんの少しだけ思っていたのだ。
聖臣が嫌いだ。
俺から離れて行く聖臣が嫌いだ。俺を踏み台にして越えていく聖臣が嫌いだ。俺よりなんでもできてしまう聖臣が嫌いだ。ひとりだけ、そんな感情も知らずにきれいなままで生きていられる聖臣が嫌いだ。
こいつなんかいなければよかったのに。
俺の中の汚いものが溢れ出して、一瞬だけ魔が差してしまった。それが一番悔しくて許せない。俺の大事な聖臣を俺自身が傷つけたことが、今はなによりも憎らしい。憎くて憎くて、涙が出る。
ベッドの端に突っ伏して俺が泣きじゃくっていると、不意に聖臣の手が俺の頭に置かれた。いつもより少しだけ熱いように思う。まだ熱が下がっていないのだ。そういえば顔色もわるい。きっとつらいに決まっている。しかし、その手は俺の頭を優しく撫でてくれる。
「元也が悪いと思ってない」
少し鼻声がかった聖臣の声が言う。
「おれが不注意だったからこうなった。少し考えれば分かることだった。俺が黙っていなくなったから、元也は先に帰ったんだって。それなのに……もしかしたら探してくれているかもとか、都合のいいこと考えた俺が悪い。ごめん、元也」
「……っ」
聖臣が謝ることじゃない。そう言いたかったけど、喉が詰まってうまく言葉にならなかった。違う。聖臣にそんなことを言って欲しいわけじゃない。聖臣に慰められてはダメなのだ。こんなふうに頭を撫でられているようでは。
だけど、聖臣が嫌がらずに手を触れてくれることにはやはり安堵してしまう。あんなにバレーボールの上手な先輩のことも嫌がる聖臣が、俺にだけは自分から手を伸ばして触れてくれる。
それがどんな感情かは分からないけれど、俺は、それに応えたい。
俺は顔を上げて、きっと泣き濡れてぐちゃぐちゃの顔で聖臣をじっと見た。
「俺、聖臣になにかしたい。なにしたらいい?」
呆気に取られた顔で聖臣は俺を見つめ返す。真っ黒の双眸が少しだけ見開かれる。縁が少しだけ赤い。かわいそうに、俺の聖臣。俺は更に身を乗り出した。
「言って、聖臣。俺なんでもするよ」
「別にいい。それより早く帰れよ。移るから」
「移ってもいいよ。それで聖臣が元気になるなら。ねえ、聖臣。俺にできることはなに?」
「え……」
戸惑う聖臣は目を逸らした。迷っているみたいだ。ほんのりピンク色の唇がなにかを言いたくて小さく動いている。伏し目がちの目元。長いまつ毛。頬の赤みが増したように見えるのは気のせいか、それとも。困り顔で眉を下げた聖臣はたっぷり間を置いたあと、やがて躊躇いがちに口を開いた。
「じゃあ……」
一旦言葉を切って、聖臣はもぞりと体を動かす。ベッドの奥ににじり寄る。掛け布団を軽くめくり上げると、空いたスペースがぱっくりと俺に向けて開かれた。
「ここにきて。抱っこして」
照れくさそうな、小さな声。俺は一瞬耳を疑う。聖臣らしからぬ物言いは聞き間違いか。だけど、目の前の聖臣が今度は気のせいでなく頬を紅潮させて恥じらうものだから、本当なのだと分かった。ごくりと生唾を飲み込む。なぜだか妙に緊張してしまう。小さい頃からお風呂だって一緒に入っている仲なのに。しかし、これ以上羞恥で赤らんだ聖臣を放っておくのも酷なので、俺は言われたとおりに聖臣のベッドに入った。
どうすればいいか分からず、とりあえず横になってみる。果たして正解だったらしい。掛け布団を離した聖臣は同じように横になり、少しだけ下のほうへ潜ると俺の胸にそっと顔を寄せてきた。すぐに腕が背中をぎゅっと抱き締めてくる。俺の心臓がどきりと鳴った。恥ずかしいのとはまた違う、不思議な高揚感に胸が鳴る。俺は同じように聖臣の背中に腕を回して、胸の中にいる温かい体を抱き締めた。
ああ、聖臣だ。聖臣がここにいる。
抱き締めると、緊張は安心に変わる。今まで感じたことのない気持ちがひたひたと心地よく体を満たしてゆく。聖臣が俺の腕の中にいることが嬉しくてたまらない。ただそれだけで、色んな汚い感情が溶けて消えていく。きれいな聖臣のおかげだろうか。まるで俺まできれいな生き物になったみたいだ。
好き。聖臣が好き。嫌いだなんてあり得ない。俺は聖臣が大好きだ。今ならどんな聖臣だって好きだと思える。鼻先を擽るふわふわの髪の毛のにおいさえ好きだ。聖臣も同じ気持ちでいてくれるのか、時々甘えるように俺の胸に頬ずりしている。なんて可愛い生き物だ。好きだ。聖臣が好きだ。
そんな時、聖臣はおもむろに呟いた。
「好きだ。元也の体温。元也のにおい。元也の心臓の音。元也の全部。ずっと昔から好き。安心する」
俺は、俺の胸の左側にぴたりと頬を寄せた聖臣を見下ろす。
「初めてじゃん。こんなふうに抱き締めたの」
「そう。でも俺はずっと前から知ってる。生まれる前から」
まるで夢を見ているように、聖臣は語り始めた。
「生まれる前は暗くて温かい場所にいた。俺はそこが好きだったから、外の世界になんて行きたくなかった。怖かったから。でも、泣いている声が聞こえて。誰かが必死に俺を呼んでたから、ああ、行かなきゃいけないんだって思った。あれはお前の声だった。バレーボールに誘ってくれた時に気が付いた。俺を呼んだのは元也。俺は元也のそばにいるために生まれてきた。元也に出会うために生まれてきた」
聖臣が顔を上げる。布団の中から、他のなにも映さない真っ黒の目が俺だけを捉えて見つめる。
「俺の元也」
そうしてまた聖臣は俺の胸に顔を埋める。俺はその髪を弄ぶように撫でる。
聖臣の言ったことはよく分からない。きっと熱に浮かされて譫言を言っているのだろう。生まれる前の話なんて覚えているはずがない。ただ、聖臣がそう思ってくれていることは素直に嬉しい。
偶然、俺は聖臣の従兄弟に生まれついて、そばにいるだけなのだと思っていたけれど。聖臣が言うように、出会うために生まれてきてくれたのなら。
必然として俺と聖臣が出会えたのなら、それは幸せなことだと思う。
だって今はこんなにも聖臣が好きだ。
たぶん、これが『愛しい』という気持ち。文鳥のトラが、巣箱の中で大切に抱いていたものの正体。
聖臣が愛しい。心のそこから愛しい。
どうか、聖臣を抱き締めるのは俺だけであって欲しい。この出会いが偶然でも、必然だとしても。
・・・
「そうよ。きよくんね、とっても難産だったの。予定日になっても生まれてきてくれなくてねぇ。姉さんすごく心配してたわ」
お母さんが話す横で俺はオムライスを頬張っていた。きっかけはよく分からないけれど、俺の卵嫌いは突然直って食べられるようになったのだ。もともとオムライスは大好物だから、今日はお母さんにせがんで作ってもらった。向かい側では聖臣が同じくオムライスを食べている。今日も聖臣の家族は帰りが遅くなるらしいので、聖臣はうちで夕飯を食べてお風呂に入って、たぶん俺の部屋に布団を敷いて寝るんだろう。
「それから何日経っても生まれてこないから、いよいよ大変だってお医者さんも慌てたの。赤ちゃんはお母さんのお腹の中にいられる時間に限りがあって、あんまり長くい過ぎるとよくないのよ。きよくんは予定日より十日も長くお腹にいてまだ出て来なかったから、赤ちゃんが生まれやすくなるお薬を使って出て来てもらうことにしたのよ」
俺は聖臣の顔を盗み見た。いつもと同じ、聞いているのだかいないのだか。抑揚のない顔で規則正しくスプーンを口に運んでいる。自分の話なのにちっとも興味がないらしい。
「でもね、それでもきよくんは生まれて来なくて。姉さんとお医者さんがいよいよ大変だってなった時、急に元也が泣き出したの。普段はすぐに泣き止むんだけど、その時ばかりは全然泣き止まなくてね。抱っこして『大丈夫よ』ってあやしてもずっと泣いてたのよ」
俺は食べる手を止めた。初めて聞いた話だ。聖臣が産まれる時、俺がすぐ近くにいたなんて。しかも俺は泣いていたのか。うすら寒い心地がして、思わず聖臣を見つめる。本当に微塵も関心を示さない聖臣は俺の目を見つめ返してはくれず、ただ黙々と食事を続ける。
「そうしたら急に陣痛が来て、うそみたいにあっさりきよくんが生まれたのよ。ねえ、不思議でしょ? あなたたちってなにか繋がってるのね、きっと」
事も無さげに笑うお母さんとは反対に、俺はぞっとする。いつか聖臣が譫言みたいにしゃべっていた話を思い出す。
まさか本当に聖臣は俺に呼ばれて、俺に出会うために生まれてきたというのか。
お腹の下のほうがきゅっと疼いた。痛いような、熱いような不思議な感覚。
同時に、口の中に違和感を覚える。俺は口の中で咀嚼しかけていたオムライスの中からその正体をスプーンに吐き出した。ごろりと転がり落ちた塊。真っ赤なケチャップが剥げて、真っ白な表面が無機質になってそこに乗っている。
「お母さん、これなに……?」
「え? なに言ってるの。チキンライスなんだから、鶏肉に決まってるでしょ」
それを聞いた俺は、食べかけのオムライスを全部吐いた。