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らーめそ
井闥山学院高校の卒業式は、本日つつがなく執り行われた。
現在時刻は17時半。ガラ空きの電車。目的地は実家の最寄り駅。そこに花束や色紙、紙袋を抱えたでかい男がふたり。
俺――古森元也と、佐久早聖臣。
ゆら、ゆらゆら。
ふと、佐久早よりも電車よりも揺れる物に目が留まった。
少しよれたブレザーの胸元には赤い花と白いリボン。
教室で配られたときは俺たちがつけるものとすら思えなかったコサージュだ。リボンには黒字で書かれたおめでとうの5文字。それは俺の胸にも等しくあって、今日という門出を華やかに祝ってくれた。
これをつけたまま電車に乗るといかにもな感じがして少し照れくさい。式が終わったら外してもなんら問題はないのに、隣の男がそのままだったから、俺もそれに倣っていた。
そろそろ外さないか、と声をかけようとする。
「ありゃ」
ぐったりした顔で座席にもたれかかる横顔は見るからに疲労困憊だ。
今日は10時から市民ホールで卒業式。式後のボタン争奪戦に命からがら回避するも女子バレーボール部の後輩からは連絡先を聞かれまくり、男子部員とは今後の相談会。13時にホテルで卒部式、のち昼食。そのあと3年のみでカラオケに行くというハードスケジュール。
口数の多くない佐久早はだいぶ無理をしたのだろう。普段なら電車で意識を手放さないのに、珍しく船を漕いでいる。
「きよおみ、寝たの?」
返事がない。だからこの車内で他にやることも話す相手もいなくなってしまった。
ならば後でからかってやろうと、男の顔を眺めた。そして視線を上げたら最後。
耳にかかった不織布の病的な色とは違う、日焼けのない白い肌が橙に染まっていく様。正面の窓から鋭角に射し込む西陽で、まつ毛がきらりと光る様。瞼が震えると光の粒も瞬く。マスク越しでもわかるすらりと通った鼻筋の陰影は濃色だ。
まったく見飽きない名画であった。
車内のドアが開いたことも、車掌のアナウンスの声も気が付かないほどに見つめた。
電車が街を駆け抜ける度、夕焼けが佐久早の色を変える。
一瞬たりとも逃してなるものか。
紙袋を抱えていた佐久早の指がゆっくりと解かれて、重力に逆らわずに落ちてくる。緩く開かれた手のひらが俺の太ももに、とん、と触れたとき。
俺はその手のひらを、握ってしまった。
攫いざらい
乾いた皮膚が密着した瞬間、我に返る。
俺はいま、なにをした?
指が中途半端に絡まった。もし佐久早が起きてしまったら。そう思うとぴくりとも動かせない。正面に人が居ないことが幸いに当たるかもしれないが、禍いはそれをゆうに超えてくる。
佐久早が起きたのだ。
本当はまだ寝ていなかったのかもしれない。ほら、あるだろう、意識は起きていて云々、みたいなやつ。
背筋に、じわり。気持ち悪い汗が浮かぶ。上手く理由は説明できないのだけれど、とにかく、なんか、咄嗟に握ってしまったのだ。本当にそれ以上意味はないのだけれど、そういう意味、で捉えられてもおかしくはない。
「……なに」
話しかけられた驚きで反射的に手を離す。次の行き先がどこにもない。中途半端に空を彷徨わせた。
「いや…………生きてるかなと、おもって」
「あっそ」
我ながら苦しすぎる言い訳じゃないか? いっそ次の駅で降りてしまいたい衝動に駆られた。ちなみに最寄り駅は次の次の次の駅である。
こういうときに限って電車内は嫌に静かだ。時間が経てば立つほど余計に音が消えていくような気さえする。
「……今日の飯、なに?」
そしてこの沈黙を破ったのは佐久早だった。
「え」
「……夜ご飯」
いやいや、苦しいって。話の振り方が下手すぎる。
「……ケーキとかじゃね」
「飯じゃねぇよ」
「……じゃあキーマカレー」
「それおばさんがさっき気に入ってたホテルの飯じゃん」
「持ち帰りたいわぁ〜つってたよな」
なんか、馬鹿馬鹿しくなってきた。別に握ったからどうというわけではない。記憶を抹消したいかと言われればYESと答えるが、消せないのだから一旦開き直るしかない。
佐久早はそんな俺を知ってか知らずか、紙袋を抱え直して『寝る』と呟いた。
「また? もうすぐ着くじゃん」
まるで夜景を反射する黒い海のように、佐久早のまつ毛は瞬く。
そのあと、何も言わず、俺の肩に頭を乗せた。
首筋が擽ったい。頬にうねったくせ毛が当たる。いつも寮で同じシャンプーを使っているのに、“聖臣の匂い”がした。
「もっと肩下げろ」
「……え〜無理なこと言うな」
とは言いつつ、佐久早の方にできるだけ身体を傾けてやる。
外側の守りは堅いくせに、内側を許したらとことん柔い男だ。だから数分前に手を握ってきた相手にも頭を預けてくる。
性格や人との距離感を多少なりとも知っていれば、この行動が佐久早の普通じゃないことくらい簡単に気付くだろう。
だったら、なんなのか。普通じゃないなら、――いや、やめとけやめとけ。
「俺も寝ていい?」
否定も肯定もしない佐久早がまだ起きていることは知っている。けれど『寝ちゃったか』と笑って隣の頭に体重を預ければ、数分後本当に寝息が聞こえてきた。
俺は佐久早にとってなんなのか。佐久早は俺にとってなんなのか。
まだ言葉にしたことがない。
でもなんとなくわかるから、まだ確認しないほうがいい。そう思って今日まで過ごしてきた。
今日は卒業式。門出の日。
窓の外の四角い景色は走馬灯のように駆ける。夕陽はブランケットのように俺たちを包み込み、まだふたりで居てもいい、と意識を溶かしてくれる。
夕陽が沈んだ頃に起きよう。
けれどこのまま、起きられなくてもいい。
心の片隅では矛盾した考えがあった。だって、俺の身体の片側に、佐久早の温もりを感じることができるなら。
どこに辿り着いても。きっとあたたかい。
:
俺と佐久早の終わりは、どこだろうか。最近、そのことばかり考えている。
でも今日、答えが出た。答えは、東京から埼玉を経由して最終的に千葉まで辿り着いた終点駅である。
俺たちは絶望という言葉を体現した存在になった。
回送ですから降りてください、と駅員に声をかけられたときには信じられなくて一度降車を拒否しかけた。
「おァ〜……やっちゃったなぁ……」
俺の肩で爆睡していた佐久早は、起きて周りを見渡すと、……あぁ、言葉も出ないようだ。マスクの内側で口がぽっかり空いている。
「聖臣……降りよっか……」
放心した男の腕を無理やり掴んでなんとか降車。エスカレーターでホームを降りて改札から出ようとする。すると我に返った佐久早に腕を強く引かれた。
「オイ、なんで出る。逆方向の待てばいいだろ」
「でも終電まで全然あるぜ。ここから海岸近いし海行きたくね?」
「はぁ!?」
文句ばかり言っていた佐久早も、両手に抱えた荷物を400円払ってコインロッカーに預ける頃には大人しくなっていた。財布と携帯だけをポケットに突っ込んで改札を出たら、腹を括ったようで後ろに着いてくる。
まるでコンビニに行くみたいに、ふたりだけの秘密の旅行が決行された。
よく知らない街でふらふらと海を目指す。なんかロマンチックだ。
母親にはメールでカラオケが長引いていると嘘をついた。今日くらいは実家で夕飯を食べる予定を立てていたから、少しの申し訳なさが込み上げる。
けれどここまで来ておいて、すぐ折り返すのは味気ないと思ったのだ。どうせなら楽しかった思い出話にしたい。時刻表を念入りに確認していた男もいることだし、俺は帰る時間もあまり気にしない。
海への看板を見つけると、俺たちはわかりやすくテンションを上げた。
街灯のない砂浜へ足を踏み出すと、コンクリートとは違う感覚。ぐにゅり、靴が沈み込む。足元が見えないから余計に感覚が研ぎ澄まされている。
「海だ」
「海かァ〜?」
辿り着いた先には人が全く居なかった。いや嘘。居たとしてもあんま見えてないから居ないってことにしとこう、が正しい。
欠けた月と海岸沿いの道路傍にある街灯。そこから少しばかりの明るさをもらって、海は輪郭を保っている。
「元也、入んなよ」
「俺が3月に海入るような馬鹿に見える?」
「結構」
卒業式終わりのピカピカのローファーに尋常じゃないくらい砂を取り込みながら、波打ち際まで歩いた。そしてたどり着く。
海は青くなんてなかった。
黒々とした表面は時折波打ち、白く光る。波が迫っては遠のいていく。率直に言えば怖い。超マイルドに言えば幻想的だ。
電車が線路を駆ける音が波でかき消される度に、帰るあてがなくなっていくのも感じた。
「地球が青いっての、マジかな。行ったことねぇから信じらんねーわ」
「青い」
「言い切るじゃん。さては聖臣、ウチュージンだな」
その言葉にうんともすんとも返さなかったので、心配になって横を見た。別に疑ったわけじゃない。本当だ。
「なに笑ってんだよ」
「笑ってない」
「いーや笑ってた」
「ちなみに太陽に当たってないときの地球は黒い」
「じゃあ青くねーじゃん」
海に来ても、特にやることがない。遊泳禁止の看板とコンビニの明かりひとつない周囲。出来るのは雑談と散歩くらいか。
「あ……母さんから。遅くなるならご飯食べちゃうね、だと」
「いんじゃね? 今日聖臣ん家で食うんだろ」
「主役ふたり不在」
「ケーキとか普通に全部食われそう」
珍しく佐久早の家族も揃う予定だった卒業パーティーは、ただのパーティーに変わるらしい。俺の実家はだいたい俺が揃えば全員集合となるが、佐久早の実家はそうじゃない。
それでも着いてきてくれたのは、何故だろうか。単に俺が心配だったのかもしれない。――というのは建前で。本当は少し察しがついていた。
どちらからともなく、湿った砂の上を歩き出す。佐久早が少しずれた歩幅で歩く度に、自分とは違う音が響いて心地よかった。
「聖臣って、さぁ――……」
俺が4月からさ、約束をしないと会えない距離まで遠くに行っちゃうこと、知っていますか?
こんなこと、当たり前に知っている。半年以上前から、なんなら親よりも先に報告した。
けれど佐久早は、なぜか俺が明日も隣にいるものだと思っている。そんな約束をした覚えもされた覚えもない。俺たちは恋人でもないくせに。お互いの明日を縛る力なんてないのだ。
けれどもし、俺がその腕を掴んで海の中へ沈んでも、お前は腕を振り払わない。
恋人でもないくせに。確証のない自信がある。
「なに」
「……なにって?」
「さっきなんか言いかけただろ」
「あ〜……いや〜……何言いたかったか忘れた」
「嘘つくな」
佐久早は、突然手を握ってきた男の肩に自分の頭を預けてしまう人間になってしまった。改札を出ずに折り返せばタダで帰れるのに、男と海を見るためだけに4桁の片道代を出す人間になってしまった。
俺が、佐久早を変えてしまった。
「おい、気になるからそういうのやめろって言ってんだろ」
「……聖臣って、バレー上手いよなぁ」
「なんだそれ」
代替案は意味不明な方向に着地した。けれどそれは本心だったから、勝手に口から溢れた。
傍から見れば、俺たちはプロ選手行きの飛行機の、ファーストクラスに搭乗しているらしい。
得るはずだった青春の思い出を全て部活に費やした結果がそれ。なにをするにもバレーが優先で、その他に大事なものなんて次に家族くらい。
強くなって気づいた。
バレーボールをしているうちは、自分よりも大切なものなんてできやしない。
全寮制の井闥山に入ってより実感した。誰かのサポートももちろん必要だけれど、選手として生きるなら自分のために時間を使わなければ強くなれない。良くも悪くも自己中心的なところが身につき、そして俺たちは大会で結果を出し続けてきた。
俺と佐久早は同じだ。バレーボール選手でいる限り、自分以上に大切なものなんてできやしない。
「……バレー選手になるんだもんな、お前」
俺たちは高校を卒業してもバレーをやめない。いつか、身体が思い通りに動かなくなるまで選手としてコートに立つだろう。
「馬鹿にしてんの?」
「しみじみしてんだよ」
お互いにわかっている。口に出すべきではない言葉がある、と。
せめて、相手が佐久早じゃなかったらいくらでも妥協できたのに。例えば適当に一緒にいるだとか、夜だけ会って朝には解散とか、一番にならないことをわかってもらうとか。
「なんでお前、バレーうめぇんだよ〜……」
なんであの日、俺は佐久早をバレーに誘ってしまったのだろう。そのせいでバレーの神様と出会ってしまった。
佐久早が何もない、ただの人間だったなら。今ここで攫ってしまうのに。
俺たちがバレーボールなんてやっていなかったら、普通に付き合ってたかもしれないのに。
「元也」
夢中で歩いたからか、いつの間にか随分遠くまで来ていた。後ろを振り返ってみても頼りの足跡は波に攫われてしまって見えない。今はどこにいるのか、どれほど遠くまで歩いたのか。自分たちでは全く検討がつかない。それでも海岸線はずっと遥か先まで延びていて、隣を見れば佐久早がいた。
「もとや」
「……なに」
佐久早は俺の腕を掴む。このままここに立ち止まっていたら、次に寄せる波に足を持っていかれてしまう。
「俺は待てる」
海の色に溶けた佐久早のかたちが、光る。雲間から差した淡い月の光で縁取られたのだ。
やはりコイツは名画だ。電車でも砂浜でも、いちばん美しい景色を背景にしてみせる。全く見飽きない。
目が合う。黒い瞳は、海に月が浮かんでいるみたいで。それを眺めていたらすっかり時間を忘れて立ち尽くしていた。
「あ」
「うお」
咄嗟に腕を強く引かれて、身体同士がぶつかる。力任せに引っぱるものだから、勢いよく、遠慮なしに。額と顎がぶつかった。
「ッデぇ!!」
「〜〜〜っ!!」
ふたりして砂浜にしゃがみ込んで、唸った。額の一点に鈍い痛みが響き、佐久早もまた顎の一点を押さえて呻いていた。
「ってぇ〜〜〜〜ちから、考えろ〜〜〜……」
「クッソ……濡らしときゃ、よかった……」
俺の足元は佐久早のおかげで守られた。が、それはそれだ。佐久早の肩に額を埋めて、なんとか痛みをやり過ごそうとする。無意識に佐久早は俺の背中に腕を回した。多分佐久早も痛かったから、どこか縋れる場所が欲しかったのだ。ブレザーがぐしゃりとシワになっているのが背中でわかった。
「……もとや」
「俺のデコある?」
「ある」
「みてから言えよ」
「……さっき言ったこと、忘れてねぇよな」
いつの間にかブレザーを握っていた手は俺のうなじを掴んでいる。佐久早の乾いた指が首筋に触れると鳥肌がたった。だがそんなこと佐久早には関係ない。ぐっ、と鼻と鼻が近づけられる。これはなんのための行為なのかよくわからないが、眼前の男が至って真剣な目で見てくるので俺もそれに応えた。じっと見つめ合うこと、寄せて引く波3回分。
俺は待てる、か。
「……お前さぁ」
ざっと10年。俺が佐久早とバレーを始めてから井闥山を卒業するまでの年数だ。
大まかに見積もって俺たちが30歳までバレー選手として飯を食べていくとしよう。それもざっと10年後。片方の健康状態によっては年数が大幅にぶれるかもしれない。
「なに」
「やめろよ」
「なにが」
今まで俺たちが過ごしてきた10年分、もう1セット。
だって、じゅうねんって。長いぞ。その間に俺たちは小学生から高校生になったのだ。またその分を同じような距離感で過ごさなければならないのか。
「…………お前、やるっつったらほんとにやるじゃん」
正直、俺たちならできる、と思う。
だって一応いまも、理性は失っていない。
攫ってやりたいとか大層なこと考えておいて、結局今まで何もしてこなかった。あと数ミリ前に突き出せば触れ合う唇は今もお利口に固まっているし、獣みたいに押し倒してやろうとも思わない。
「だから何」
「いや……」
煮え切らない態度に佐久早はため息を吐いた。
「お前は待てねぇのかよ」
ハイかイイエで答えられる質問にうまく答えられない。俺が言葉に詰まる理由はなんだろう。願ってもない申し出じゃないか? 予約期間は確かに長すぎるけれど、確実に佐久早が手に入るプランだ。
――多分、ビビってる。
たかが18歳と17歳の子供が決める口約束にしては、あまりにも重いから。
簡単に頷いたら、佐久早は本当に10年恋人をつくらない。俺のハイかイイエでひとりの人間の10年が決まる。
広い砂浜で、俺たちはふたりでひとつみたいに密着して蹲っていた。
俺が言い淀む間も、佐久早の瞳は揺れることなく真っ直ぐ俺を貫く。
耐えきれなくなって、結局俺から目を逸らした。やっぱり荷が重いよ。
「……なぁ」
佐久早の肩に額を預ける。身体を少し傾ければ、目の前に晒された首筋と最近刈り上げた項。潮風でうねった髪が揺れる度に俺の頬を撫でた。
ついでに胸元に手を添えた。制服越しでもわかる。ここがこの男の熱の発生源である。
「なに」
「……聖臣これ欲しい?」
荷物は全部コインロッカーに入れてきた。現在の持ち物は携帯と財布。それとあともうひとつ。
俺たちの門出を祝う、花とリボンで出来たコサージュだ。
「欲しいならやる」
「あんがと」
ブレザーの下襟を捲って安全ピンを外す。手に取った赤い花びらは、パサついた造花だった。
「……おい、なにすんの」
俺のやりたいことがわかったのか、佐久早の声は揺れていた。でも関係ない。もう俺のものだ。
「もとや」
俺と佐久早の僅かな隙間。なんか、ここだけあたたかい気がする。俺と佐久早の熱の中心点だ。
「ん〜? うらない」
小さな温室みたいな隙間に赤い花を掲げる。花びらをつまむとまるで生きているみたいにかわいくて儚い。
綺麗だなぁと思いながら、ちぎった。
「……は?」
ちぎって、ちぎって、ちぎって、ちぎる。
「聖臣のことを、待てる、待てない、待てる、待てない……」
先程まで佐久早の門出を祝っていた美しい花。それをブチブチと引きちぎる。感覚は布を裂くのに近い。
「っおい」
「動くなって。花びら飛んじゃうだろ〜」
「……」
佐久早は風除けだ。だってペラペラの花びら1枚なんかすぐにどこかに飛んでいってしまう。海にゴミを不法投棄してはいけないから、壁がいないとだめなんだ。
じっとりと睨まれてもなお、花びらをちぎるのは止めなかった。だってはやく結果が知りたい。
「まてる、まてない、まてる、まてない、」
小さな蝋燭の灯火。それが風に消されないように守っているみたいだ。灯りを失ってしまったら、これからなにを頼りに生きていけばいいか分からない。
俺は考えるのが面倒くさくなって、ハイかイイエで答えられるものを探して、見つけた。花占いである。
「お前、占いなんて信じるの」
「んにゃ、なんも信じたことない」
「……だろうな」
俺は占いなんて信じていない。
ましてや花占いなど、これまでの人生で一度だってやろうと思ったことはなかった。
花を大切にしましょうって、学校の花壇に書いてあったし。花の命を使って人間の気持ちを決めつけるなんて気持ち悪い。しかもその気持ちが当たっているかの保証もないなんて、花は散り損だ。
じゃあなんでやってるかって?
「俺この花嫌いだからいいんだよ」
別に祝ってくれなんて、言ってない。
来月から俺は静岡のプロチームに所属し、佐久早は東京で大学生になる。
この別れは俺たちの次への大いなる一歩であるが、佐久早と別れたくて道を違えるんじゃない。
俺たちはバレーボールをしている自分がいちばん大事だから、お互いを大切にできない選択ばかりする。それが悔しい。
だから、簡単におめでとうなんて言うな。
「待てる、待てない、待てる……」
花びらは残り数枚。俺たちの運命を決める花占いは、案外簡単に終わってしまう。
「あ、」
奪われた。
花は佐久早の手に。俺は佐久早の腕の中に。
「……なに」
「……」
「きよおみ、なんでとんの」
残り数枚。結果は数えればすぐにわかった。そして奪い取られた。あのまま終わると、佐久早にとって都合の悪い結果になってしまうらしい。
「……大人しく待てねぇのかよ」
やっぱり、俺と佐久早の間だけ異常に熱い。
佐久早は砂浜に膝をついて俺を引き寄せた。珍しいことをするものだ。俺の踵のすぐ傍では波が沖へ誘っている。このまま海に入ってしまおうか。でも、一緒に来てはくれなさそうだ。
「やっぱ待てねぇかもなぁ」
縋るように俺に抱きついていた佐久早はパッと顔を上げると、捨てられた子犬のような顔をして目を伏せた。
「ハハハ」
「お前……! まじで、なんなんだよ」
「俺が聖臣とキスしたりセックスしたりさぁ、待てなかったらどうすんのよ。契約終了?」
ちなみに今めっちゃしたいよ?と囁けば佐久早の見えない尻尾と耳が揺れたような気がした。
「……元也はやると決めたらやる。だから待てる」
「そればっかだなぁ」
「本当のことしか言ってない」
「さっき焦ったくせに」
佐久早の腕の拘束は堅かった。そこから動くな、と言っているみたいに。物理的に動けなくたって意味はないのに、佐久早はずっと俺を抱きしめた。遠くで電車が走る音が聞こえる、気がする。もう戻らないと。帰ることができなくなる。
「聖臣、ギブ」
「……」
「わかったから」
花びらを握りしめた手で佐久早の背中を軽く叩いた。
ここから先の10年は予約期間で、そのあと全部お前のもの。誰にも靡かないこと。現役を引退したら共に生きていくこと。
「……おれ、マジで待つよ」
「当たり前だ」
この先10年分の抱擁を交わしたあと、俺たちは駅へ戻った。人のいない東京行きの電車が出発する頃には、俺と佐久早がこの砂浜を歩いた足跡すら波に攫われて見えなくなっていた。